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常泉寺ご案内

太閤山・常泉寺略縁起【豊臣秀吉公誕生の地】

当山は、始め豊国大明神の廟堂として、慶長中肥後守加藤清正・開山圓住院日誦上人とで創建されました。
御神体は豊太閤の肖像束帯唐冠(長さ二尺余り)で木食興山上人の彫刻です。始めは大阪城にあった御神体を清正が秀頼公にお願いして此地に鎮座し奉りました。正殿拝堂及び廊門巍々玲籠として東海地方では壮観な寺院仏閣と言われております。又正殿の一宇を営み秀吉の宅跡を以て太閤山と号し、古井戸は同公産湯の瑞水で涸れることのない名水の清泉が湧き出るので常泉寺と名づけられ、廟堂の別当としました。
加藤清正は慶長16年名古屋城の築城に加わり、数ヶ月名古屋萬松寺に身を置き、完成の後、本陣の仮屋を日誦上人に喜捨して、仏殿とし妙行殿としました。この地は筑阿彌(弥右衛門)の宅跡であって、豊太閤降誕の地でもあります。庭の柊は太閤自らの手で植えられ今なお茂っています。

太閤の御母堂天瑞院殿(大政所)は藤原保通の娘です。保通は朝廷に仕えて後柏原天皇の重鎮でしたが、永正10年秋(天瑞院殿2歳)に失脚し、中村に隠居させられて、後年赦し得て京都に還り、旧宮に復帰します。
天瑞院殿は容姿端麗な娘に成長しました。そして後奈良天皇に寵愛され御懐妊しました、宮中の姫これを妬み危害を受ける恐れある為に、名古屋に逃れ筑阿彌の宅に寄居する.天文5年元旦に一男子を産む、是即ち、豊太閤であります。
後に筑阿彌の妻になり秀長と二女を儲ける。筑阿彌の名は昌吉で、始め織田信長に仕えて後に、剃髪し出家します。筑阿彌は其の法名です。

元和元年夏廟堂から火災に遭い殿宇悉く灰燼となります。別当日探上人(当山二世)速やかに、正殿に入り神像を背負って出て恙無き事を得ました。その後日探上人一草堂を旧跡に建て、妙行殿を妙行寺に改めて弟子日璋に授けます。常泉寺を草堂に移します。これにより両院となり共に法華の霊場です。

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豊太閤の肖像

束帯唐冠・長さ二尺余りにして
木食興山上人の彫刻で始めは大阪城にあり、
清正右大臣秀頼公に請い此地に鎮座し奉る。

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豊太閤産湯の井戸

此の井戸は秀吉公生誕の当時近郷に類のない清水の溢れる井戸と伝えられております。此処に秀吉の依頼によって寺を建立した時この清泉の涌出を意味として常泉寺の寺号を定めたと当山の縁起書に記されております。昭和40年代に入り市の発展に伴い地下水の変動で常泉も枯れるに至り多くの人々が元の姿に戻すことを願っておりました。年号改元を機に常泉寺の名のとおりの再現を試み清泉が甦りました。滝に落下する後の石は千成瓢箪にちなんで〔萬成石〕が使用してあります。

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御手植えの柊

秀吉は(1590年)小田原城攻め凱陣の時、此の地に立ち寄り一宿されて、小早川隆景・加藤清正を呼召され、寺の建立ありたしと見れば、私11才のとき植え置いた柊(1547年)が繁茂せり、柊は鬼神も恐れる吉祥の樹なり大切に致すべしとして、手ずから竹を立添えられる。以来「幹」が衰えても下枝が育ちを繰り返しながら現在に至る。

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